阿刀 “DA” 大志

Daishi “DA” Ato


1975年12月17日生まれ。O型。
秋田生まれ(里帰り出産)東京育ち。
名刺交換のときによく聞かれますが本名です。

初めて買ってもらったレコードはALFEE「STARSHIP ~光を求めて~」。小学校高学年でおニャン子クラブにハマり、友だちとの遊びを早々に切り上げ、「夕やけニャンニャン」を観るために家へ帰るような子どもでした。推しメンは福永恵規。おニャン子以外だと、荻野目洋子や浅香唯も好きでした。ああ、どの子も髪短いね。そういう趣味だったということです。例外は森高千里か。

その後、「CAROL」期のTM NETWORKに出会い、小室哲哉を神と崇めるようになります。ファンクラブにも入ったし(つまり、FANKSになった)、部屋の壁一面に彼らのポスターを貼りまくるぐらい好きでした。原宿・竹下通りの入り口脇にあるビルの半地下、あそこは以前、TMをはじめ、いろんなタレントショップがあった場所で、毎週のように足を運んでました。初めてのコンサートは中1の時に観に行った小室哲哉ソロコン@横浜アリーナ。ダフ屋のオヤジに騙されて、センター席のチケットをアリーナ席という名のスタンド席に交換させられたのは今でも苦い思い出です。紛らわしいんじゃ!

音楽に関する大事なことは全て小室哲哉が教えてくれました。ハードロック、テクノ、ヒップホップを最初から抵抗なく受け入れられたのは彼のお陰だと思ってます。しかしその後、アルバム「EXPO」を機に、TM からはいったん距離を置くようになります。

MC HAMMER(初めて観た外タレのライブが彼)やVANILLA ICEがスターダムにのし上がった中3の頃、ラップ/ヒップホップにハマります。なかでも、PUBLIC ENEMYに心酔するようになり、そこからICE CUBEなどのハードコアラップ道を突き進むようになります。MALCOLM Xの演説集のCDとか買ってましたね、ほとんど聴かなかったけど。当時、ハードコアラップとの親和性が高かったヘヴィメタルと出会ったのもその頃です。ANTHRAXが好きでした。ICE-T率いるBODYCOUNTの発禁CDが、なぜか銀座の山野楽器で売ってるの見たときのことを今でもよく覚えています。5千円だったので手が出ませんでしたが。

小室哲哉と「BEAT UK」をきっかけにテクノも聴くようになりました。当時はthe prodigyがぶっちぎりでマイヒーロー。数年後、レンタルビデオ屋でバイトを始めた頃、お店の先輩に「もっといろんなテクノ聴いたほうがいいよ」と言われ憤慨したものです。まあ、その先輩が正しかったのだけど。そして、ヒップホップ好きが高じ、高2の頃にはアメリカ・カリフォルニア州で2週間のホームステイを経験。初めてターンテーブルを触らせてもらい、まんまと壊してしまいました。このときの経験が大学留学の遠因となります。

こんな音楽生活を送っていると、年頃ということもあり、邦楽を嫌悪するようになります。高2から高3のある時期まで、今となっては貴重なアンチ邦楽時代を送ります。しかし、そんな日々に終止符を打ったのが、当時大好きだった女の子でした。2回告白して振られるぐらい好きでした。その子が言うのです、「ZARDが好きなんだ」と。ざ、ざーど? 同世代の人ならわかってくれると思いますが、ZARDなんて当時の洋楽ファンからすると最も忌み嫌うべきアーティストの一人。当然、自分の中で葛藤が始まります。「ZARDなんて聴くのか、この俺が?」1日ぐらい悩んでCD買いに行きました、「揺れる想い」。そこで聴いた「負けないで」が意外にもお気に入りとなり、そこから邦楽アレルギーが急速に収まっていくのでした。ななちゃんには感謝しかないですね。

高校卒業後、アメリカ・テネシー州に渡り、MARYVILLE COLLEGEという4年制の私立大学に進学しました。時は90年代中頃。あらゆるジャンルの音楽が最も輝いていた時代です(俺調べ)。毎日、MTVや黒人チャンネルにかぶりつき、貪欲にいろんな音楽を吸収していきました。

パンクというジャンルを認識するようになったのもこの頃。GREEN DAYNOFXthe OFFSPRINGBad Religionの名作が次々とリリースされてウハウハしてました。Hi-STANDARDを知ったきっかけは、渡米直前にタワレコ池袋店で流れていた『ATTACK FROM THE FAR EAST II』。この頃にハイスタを知った人と同じように、「え、これ、日本人なの!?」と衝撃を受けました。

運命の年は1998年でした。ハイスタがツアーでアメリカに来ることをEAT MAGAZINEで知ります。多くのパンクバンドはテネシーのような南部の街に来ることはほとんどなく、このときも最も近くて車で6時間離れたオハイオ州コロンバスという街でした。メリビルは日本からの留学生が多く、パンク好きな友だちも数人いたので、学校の授業が終わってからみんなして車でコロンバスへと向かったのでした。

6時間というと結構な長旅ですが、このときはあまり気にならなかった気がします。会場周辺に着いたのは何時だったか、もうスタート間近だったでしょうか。我々の焦りをあざ笑うかのように駐車場が見つからない。ようやく停められたのは20時までという時間制限付きの場所。まあ、それでもなんとか会場に入ることができました。そこは古いシアターを改築したようなところで、2階にはオールドパンクス(見た目がすげぇカッコよかった)が陣取り、1階では若者が大暴れしています。自分は当然フロアへ。1組目のBOUNCING SOULSの次はハイスタ。できるだけ間近で彼らのショウを観たかったので、パンパンのフロアをかき分けて最前へと向かいます。そして、ステージ前の柵までたどり着き、パッとステージに顔を向けると、横山さんと難波さんが「ドギースターイル!」と腰を振り、アメリカ人の爆笑をかっさらっていました。「MY SWEET DOG」の前フリです。「すげぇ……アメリカで笑いとってる……」これがハイスタのライブで一番強烈な印象を残した瞬間だったような。

ライブはとにかく楽しかった。もみくちゃになりながらもステージを凝視。そこにいるのは紛れもないヒーローでした。なんとも言えない充実感に満たされましたが、その時間は長くは続きません。「ヤバい、駐車場閉まっちゃう」そうでした。時間はもう20時前。ハイスタを観れたんだからもういいじゃないか? いやいや、この日のトリはNOFXです。これを観ずに帰るなんてとんでもない。なんせこっちは6時間もかけて来てるんだから。しかし、この日のライブは再入場不可。もはやこれまでかと諦めかけたとき、物販にある人を発見。ツネさんです。必死だった我々は少し躊躇したあと、ツネさんに話しかけます。「すみません! 俺たち、日本人なんですけど!」と事情を説明。すると、ツネさんは首から自分のスタッフパスを外し、それを友人に手渡してくれました。神! そうやって我々は無事に車を別の駐車場に移し、みんな揃ってNOFXのライブを観ることができました。だけど自分にとって、あのパスはNOFXを観るためのものでは終わらなかったのです。

トリのNOFXのライブも終わり、ライブハウスからはどんどん人がいなくなっていきました。じゃあ、俺たちもそろそろ帰ろうか……なんてことにはなりません。少なくとも自分はならなかった。なんせ車で6時間かけてここまでやってきたのです。あ、6時間と言っても、アメリカのハイウェイだと日本以上にぶっ放すので、みなさんが思ってる以上に距離はあります。そこまでして来たんだから、ハイスタのメンバーと話をしたいじゃないか! そう思った俺はメンバーの姿をライブハウス内に探します。そして、2階のテラス席から1階を見下ろしたら……いました。横山さ……いや、KENです。ダッシュで1階へ駆け下り、彼のもとへ。そして、言います。「俺、ミュージックビジネスに興味があって……!」すると彼は「へぇぇぇ~」と物珍しげな声を上げ、近くにいた人物に声をかけました。「小杉さーん、彼、音楽業界に興味があるみたいですよ」そう、そこにいたのは、当時ハイスタが所属していたハウリング・ブルの社長・小杉茂氏でした。小杉さんは言います。「やーめといたほうがいいよー! ろくでもないところだから!」こう応えた小杉さんの気持ち、今ならよくわかるけど、当時は将来の夢を汚された気がして、かるくムッとします。気を取り直して、横山さ……いや、KENに聞きました。「難波さんはどこにいるんですか?」「ステージのほうでサッカーやってたよ。あっちにいるんじゃない?」「え、行っていいんですか?」「別にいいよ」ゆるい! さすがアメリカ! と驚きと興奮が入り混じった状態でステージへ上がります。いました。難波さんです。そして、さっき横山さ……いや、KENに伝えたのと同じことを話しました。すると難波さんはこう言ったのです。「え、マジで! 俺たちもちょうど自分たちでレーベルやろうって話してたとこなんだよね! じゃあ、連絡先教えてよ!」そう、ハイスタの映画を観た方ならお気づきでしょう。我々がライブを観に行った1998年4月は、ちょうど3人の間でPIZZA OF DEATH設立の話が持ち上がっていた頃だったのです。

(つづく)